こんにちは、欅並子です。
「わたしが大好きだった馬」シリーズでは、主に25年ほど前の、わたしがとても若かった頃に好きだった馬とそれにまつわる思い出について書いています。
先日は、特に思い入れが強かった馬・ヒシナタリーについて書きました。
手元に残っていた資料などを見ながら書いているうちに、当時の気持ちをたくさん思い出しました。はじめは「懐かしい」で良かったのですが、丁寧に調べを進めるうちに、当時の、胸が締め付けられるような苦しい気持ちまで召喚してしまい、書き終わった頃にはぐったりと疲れ果ててしまいました。
当時は本当に若くて元気だったんだなと思いました。
40台後半にさしかかった今のわたしには、そこまでの思いはさすがにちょっと重すぎて抱えきれないなあと思いました。
その前に書いたヒシアマゾンもそうですが、当時のわたしは全身全霊で好きな馬に肩入れをし、感情移入をしながら競馬を見ていました。
レースの結果に一喜一憂するし、時々漏れ聞こえてくる馬の調子や陣営の動向などの情報にも、いちいち期待したり心配したり、忙しく敏感に反応していました。
でも、やっぱり馬は馬であって、ヒトではありません。
馬には主体としての意志はなく、周囲の人間の都合に翻弄されるだけの生き物です。
ハッキリ言えば競走馬は「人様の財産」でしかないわけで、そういう存在に自分の心の大事な部分を預けてしまうのは、とても危険なことだと今は思います。
当時はそこまで考えていなかったけど、やっぱりヒシアマゾン・ヒシナタリーが競馬場を去ったタイミングで、わたしの競馬への向き合い方も少しずつ変わっていきました。
あまり何も考えていなかったようで、やっぱりなんとなく気がついたんでしょうね。
「こんな気持ちで向き合い続けていては、心がもたない」って。
それからもしばらくわたしは競馬を見ますが、どちらかというと、当時やっていた自分のWebサイトに文章を書くことと、そのサイトからのつながりで知り合った仲間との交流を中心に競馬を楽しむようになります。
やがて結婚して子どもを育てるようになると、サイトの更新もとまり、友達関係も疎遠になりました。全く心に余裕がなくなって、すっかり競馬を見ること自体しなくなりました。
好きすぎた反動というのもあったのでしょうし、そもそも、思い入れすぎる競馬というのは、親元にいて生活の全てを面倒見てもらっていたからできたもので、自分や家族の世話をしながらやれるものではなかったんですね。
先日は、ナタリーのことを書いてぐったりした気持ちのまま夕飯を作りました。
あまりのしんどさに、ちょっと笑ってしまいました。
子育てが落ち着いたので、最近またよく競馬を見るようになりました。
でも、もうあんな風に一頭一頭の馬に思い入れることはないので「え、今年ダービー勝ったの誰だっけ」とか、基本的なことも記憶に残せないまま、目の前のレースだけ楽しんでいます。
まあ、それであっても競馬は楽しいです。
時々、昔の思い出をあたためつつ、今のわたしなりのやり方でこれからも競馬と付き合って行きたいと思います。
JRAも言ってますね。
「競馬は、ほどよく楽しむ大人の遊び」
ってね。