こんにちは、欅並子です。
「わたしが大好きだった馬」ということで、これからシリーズで時々書いていきたいと思います。
ほとんど、90年代後半から2000年頃にかけての昔の馬のお話になると思います。
第1回目は、わたしが最初に好きになった馬、ヒシアマゾンのお話。
おお、案外大きめのサイズでスキャンしたのが残ってますね。
昔の自分を褒めたいです。
この写真は、1996年11月10日に行われた第21回エリザベス女王杯の時に、京都競馬場のパドックで撮影したものです。
わたしは1995年の春から競馬をぼちぼち見るようになりましたが、その年の秋に重賞2勝しジャパンカップで2着に入ったヒシアマゾンを見て、初めて特定の馬を好きになりました。それまでは、ぼんやりと競馬という世界に惹かれていただけだったので。
ぬいぐるみやグッズを買ったり、過去のレースの映像を見るためにプラザエクウスに通うようになったのも、ヒシアマゾンがきっかけです。
競馬場でヒシアマゾンを直接見たのは、このエリザベス女王杯が初めてでした。
当時は、パドックで朝から場所取りをするという芸当をまだ覚えていなかった頃でしたが、たまたま自分の目の前の最前列で大きなカメラで撮影していた人が、パドック序盤で写真を撮り終え、早めにコースの方へ移動してくれたため、空いたスペースにサッと入って撮影することができました。
やっぱり、今見返してみても改めて、美しい馬だったと思います。
しかし、このあとレースに臨んだヒシアマゾンはゲート内で暴れ、一旦ゲートから出された後、外枠発走になります。
さらに、ゴールでは2番手で入線したものの、直線で斜行したと見做され7着に降着。
散々なエリザベス女王杯になってしまったのでした。
パドックではそんなことを全く予感させないほどに美しく、凜とした振る舞いをしていました。ファンの欲目とはいえ、やはり他の馬とはひと味もふた味も違う気高さを感じたものでした。
一体ヒシアマゾンに何があったのか、それはもう、今となっては誰にもわかりませんね。
このエリザベス女王杯の後、ヒシアマゾンは有馬記念に出走しますが、ゲートで出遅れて結果は5着に終わりました
1997年、6歳になっても現役続行を目指していましたが、その年の春に屈腱炎を発症しそのまま引退。繁殖牝馬となりました。
ヒシアマゾンがゲートで暴れるようになった背景が知りたくて、YouTubeでレースの映像を振り返ってみました。
4歳になった頃からヒシアマゾンは出遅れたり、スタート直後に引っかかってそのまま行ってしまったり、気性面の難しさをあらわにするようになります。
4歳終わりの1995年の有馬記念ではゲートに一度収まった後、中でお尻を下げるような動きをして、一旦ゲートから出されます。もう一度ゲートに入れられた後ガッツリ出遅れ、5着に敗れます。
それ以降のレースでは、ヒシアマゾンは無事にスタートを切ることはありませんでした。
ヒシアマゾンが引退した年の夏の終わり頃、わたしは北海道へ牧場見学の旅に出ます。
繁殖入りしたヒシアマゾンが、国内で種付けを済ませた後生まれ故郷のアメリカの牧場に戻るというニュースを聞いたからです。その後はアメリカで繁殖生活を送るため、もう日本に戻ってくることはない、と。
この機会を逃したらもう二度とヒシアマゾンと会うことはできなくなるという事実に背中を押され、ひとり北海道へ飛び立ったのでした。
わたしがヒシアマゾンに会いに行った日は、たまたまですが、ヒシアマゾンが日本で公開される最後の日でした。
この夏、多いときには1日100人を超える見学客が訪れたとか。
わたしが行った日にも数名の先客がいる中での対面になりましたが、かなり数は少なくて落ち着いて見学することができました。
なんか、競馬場にいたヒシアマゾンとは顔つきが全然違っていますよね。
相変わらず美しい馬には違いないのだけれど、なんていうか気が抜けたような。
そうだな、「憑きものが落ちた」っていうのが一番ぴったりかもしれない、と思いました。
競走馬の現役時代っていうのは、ある意味「憑きものが付いてる」状態を強制されているような生活なのかもしれないですよね。
きっと、憑きものが落ちたヒシアマゾンのほうが本当の姿。
のんびりと草を食べたり、たまに柵を囓ったり。
時々、人間の目には見えない何かを追うように視線を泳がせたり。
他の繁殖牝馬とは別に用意された、ひとり暮らしの放牧地には、ゆっくりとした時間が流れていました。
よかったね、お疲れ様、って心から思いました。
わたしに競馬の楽しさや怖さを教えてくれて、最後は北海道にまでつれて行ってくれたヒシアマゾンです。
欅並子の今があるのは、ヒシアマゾンのお陰だと思います。
※この文章では、話をわかりやすくするために、馬齢を現在の表記に合わせて満年齢で記載しました。ヒシアマゾンが走った時代は馬齢を数え年で表記することになっていたため、ほんとは1つ上の年齢で言っていたんですよ。